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第五幕 伸ばせなかった手

last update 게시일: 2026-02-19 06:00:14

第五幕 伸ばせなかった手

 最初に見たのは、ニュースでも記事でもなかった。

 SNSから流れてくる噂だった。写真はぼやけていて、夜の街で、二人並んで歩いているように見えた。

 だが、僕は見間違えない——沙友里だった。

 沙友里と、知らない男。

「○○と一緒だったらしい」

「仲良さそうだった」

「距離、近くない?」

 確かなことは、何ひとつ書いていない。でも沙友里は、今をときめくアイドルグループのフロントメンバー。拡散するには十分だった。

 僕は、スマホの画面を閉じた。

——信じている。

 そう言い聞かせる。沙友里が、そんな軽率なことをするはずがない。

 仕事だ。偶然だ。切り取られただけだ——分かっている。

 それなのに、胸の奥にざらついた塊が残る。そのことしか考えられず、何もする気にならない。

 僕からは何もできない。待っている時間は、今まで以上に進まない。

 否定の言葉が届いたのは、その夜だった。

『違うよ』

『仕事の流れで、たまたま一緒になっただけ』

『何もないから』

 短くて、簡素な文。文字だけでは感情が読めない。

『信じてる』

 何とかそう返した。それは、嘘ではない。でも、信じていると信じきれるは、同じじゃない。

 翌日、僕はSNSでその後を追ってみることにした。

「男関係は終わるよ」

「売り出し中なのに自覚なさすぎ」

「他のメンバーが可哀そう」

 誰が言っているのか分からない言葉が、無責任に積み重なっていく。

 沙友里の未来が、他人が書き込んだコメントの上に乗っている。その理不尽さに、僕はスマホを投げつけたくなった。

 放課後、部室で原稿を開いても、筆がのらない。

「……先輩、最近元気ないですね」

 琴音が、ぽつりと言った。心配というより、事実を確認するような声。

「そう?」

「はい。線、荒れてます」

 誤魔化そうとしたが、相手が悪い。諦めた。

「……ちょっと、色々あって」

 琴音は、それ以上聞いてこなかった。彼女の距離感が、ありがたい。

 その日の夜、沙友里から「会える?」と連絡が来た。人目につかない場所で、短い時間だけでもいいからと。

 待ち合わせた場所は、お互いの家から近い小さな公園。街灯の光が僅かに届く、人気のないベンチ。

 会った時沙友里は、強がって笑顔を作っていたが、声が震えていた。

「ごめんね」

 それが、最初の言葉。嫌な想像をして、心臓が跳ねた。

「心配、かけてるよね」

「……心配なんて……」

 ちゃんと否定したかった。でも、その前に違う言葉が出た。

「少しさ」

 自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。しかし、心臓の音はうるさい。

「……会う回数、減らそう」

 沙友里が、目を見開く。

「今は危ないだろ」

 言いたくないことを、僕の口は勝手に話す。

「何もなくても、そう見えるだけで、君が傷つくから……」

 沙友里は、唇を噛んだ。

「……直哉」

「別れたいわけじゃない」

 それだけは、はっきり言った。

「ただ、今は……距離を取った方がいい」

 沈黙が落ちる。沙友里の肩が、わずかに震えた。

「……うん」

 絞り出すような声。

「そうだよね」

 沙友里が一歩近づこうとして、止まった。

「……ごめんね」

 沙友里の声が、震える。

「でも……直哉のこと、嫌いになったわけじゃないから」

「……うん、信じてる……」

 本当は、今すぐ抱きしめたかった。何も考えずに、沙友里を連れ去りたかった。けど僕は、その場から動けなかった。

 だが帰り際、無意識に手が動いてしまった。指先が空を掴んで、今度は意識で止める。

——だめだ。

 それが、僕の選んだ答えだったはずだ。

 数日後、封筒が届いた。ライブのチケット。一周年記念の、大きな公演のようだった。

 行くべきなのかどうか、僕にはもう分からない。机の上に置いたまま、何度も視線をやっては、逸らす。

 一日中悩んでいたら部室で、琴音に気づかれてしまった。

「行かないんですか」

 責めるでもなく、試すでもなく、自然な感じで聞いてくれる。

「……迷ってるんだ」

「見たらわかります」

 琴音は笑いながら言った。

「……素直になればいいのに……」

「え……何だよ、それ」

 琴音はその問に答えず、少し間を置いて言った。

「行かない理由も、行く理由も、先輩の中にあるなら……」

 言葉を選ぶように続ける。

「行かない方を選ぶの——先輩らしくない気がします」

 その言葉で、胸が静かに鳴った。僕の中にある理由。輝いている沙友里を見ていたい、これだけだ。

「先輩、これ」

 琴音は僕にチケットを押し付けた。それでも、僕は動けない。

 そんな僕を見て、琴音は少しだけ目を伏せ——それから笑った。

「何してるんですか? はやく行ってください」

——触れない選択をした。

 でも、見ない選択までは、していない。その気持ちが残っている。

 それだけは、まだ手放せなかった。

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